◆なんてことのない短編集 -1- ◆

8/22 - 9/21


長靴



 近頃は万博のせいでやた らと道路工事が多い。何の ためにこんな所を掘り返して るのか皆目見当がつかない のだが、<仕方ないな>と 工事現場の前を足早に通り 過ぎる日々が続いている。
 工事が始まって2,3日し たある日、きっと初日からい たのであろうが、警備員が じっと立っていることに気づいた。


 恐らく40代であろう。真っ 黒に日焼けした小柄な体 で、人や車が通ればキビキ ビ動いて実に華麗に道路 の流れを操る。ただ、そこは 閑静な住宅街の裏手の 小さな道であり、その警備 員が活躍することは一日 のうちで数えるほどしか無 いだろう。
 だから、ほとんどの時間を じっと立って過ごすことにな るのだ。
 そこに立っている彼はいつ 見ても姿勢正しく、何日か すると、僕がそこを通るたび に、軽く会釈をしてくれるよ うになった。僕はいつしか彼 に好感をもって、小さな声 で「ごくろうさま」と言って通 り過ぎるようになった。
 しかしそれでもまだ、激し く日焼けした彼の顔がどん な表情を作り出しているの かを知ることはなかった。
 いつも彼の数メートル左脇 にできる木陰が、今日もまた 真っ黒な警備員を暑さの中 へ押し出すように佇んでいる のだった。

*

 次の週は月曜日から雨 だった。真夏の青々とした 木々も今日は一休みとば かり、その色調を落とし、 再び晴れ上がる時に備え ているようだ。
 外へ出ると蒸し暑い空 気に包まれ、一瞬足が止 まる。それでもめげずに傘 を差し、のろのろとアパー トの階段を降りた。
 すると、遠くから響く「ガガ ガガガガッ・・・ガタッ・・ガガ ガタッ」とコンクリートを砕く 音に気づいた。「雨でもや るんだな」と、さらに足取り を重くしていつものコースを 歩き始めた。

 「今日もあの警備員はい るだろうか」と、やはりいつも どおりアパートの前の道を 左へ曲がった。そこから20m ほど先に1本だけ木が立っ ている。いつもは涼しげな 木陰をつくる桜の木だが、 今日は周りの景色同様、 灰色の葉と黒い幹がうな 垂れたように立ち尽くして いる。

 その脇に警備員はいた。

 だが、20mほど先にいる 彼に違和感を感じた。小 柄な背筋を伸ばし、じっ と立っているのは相変わら ずだ。いつもと違うのは足 元だ。遠くからでも分かる その違いとは、色だ。ピン クなのである。彼のいるほ うへ近づきながら、恐らく 会社からの支給品であろ う、ビニールの・・・しかもよ りによってピンクの”長靴”を 履かされている彼に、胸の 詰まる思いを覚えて、なぜ か早足になった。

 近づくにつれて、僕の困 惑はより深いものとなった。 「彼」の長靴はピンク地に うっすらと薔薇の花弁が浮 かんでいるのだ。知らぬ間 に足を止めていた僕に、真 っ黒に日焼けした「彼女」 は小さく、少ししゃがれた声 で、「おはようございます」と、 初めて声をかけ、目尻の皺 を隠すことなく微笑んだ。

*

 翌日、空が少し高くなっ たと感じながら、あの「おば さん」がいるはずの角を曲 がると、まるで傷口を縫っ た後のように小さく盛り上 がったアスファルトと、そこ に涼しげな陰を落とす、九 月の桜が、今日はその色 彩を取り戻し、輝いていた。
 そして何事も無かったか のように再びやって来た静 かな住宅街の、なんてこと のない景色の一部となって 次第に僕の記憶から消え ていくのだった。



(終)