◆なんてことのない短編集 -2- ◆

9/24 - 10/11


東雲空



 「龍の巣」と言うらしい。 巨大な積乱雲、真夏の空 に、後にも先にもあんなに 大きな雲を見た事が無い。


 矢田川の土手で寝るこ とが多かった浪人生の僕 は、その日も図書館の帰 り道、僕の住む団地へ向 かう交差点で曲がらずに 真っ直ぐ自転車をこいで 堤防へと向かった。
 いつもの場所に着くと、 やはりそこは人気も無く、 さっそく短めの草が生えて るあたりに寝ころんだ。川 の音、草のにおい、遠くに 聞こえるバイクの排気音、 そして川の向こうの小牧空 港に着陸するジェット機が 大きなねずみ色のおなか を見せて行く。僕はいつの 間にか眠っていた。

 七月下旬、この年の梅 雨明けは早く、毎日のよう にこんな時を過ごしていた。

*

 突然、僕は誰かに呼ば れたような気がして目を覚 ました。と、同時に雨の匂 いが鼻先をかすめた。
(帰らなきゃ)
  軽い混乱に陥りながら顔 を上げた時、それに気づい た。

 一見普通の入道雲だが、 何かが違う。光のあたって いる白い部分が非常にき め細やかで、目がそのスケ ール感についていけずおか しくなったように錯覚する。 そしてその内側は暗く、向 こうの赤みがかったグレー に近い北の空と同化して 透けて見えるようだ。
 しばらく僕はそのまま金 縛りにあった様にその場に 立ちつくした。すると、その 巨大な暗い内側部分に 稲妻が走った。次にドーン、 と低い音が鳴ったあと、バ リバリバリッ、っと巨木を引 き裂くような音がした。夕 陽の色を反射した東の雲 は静かにそれを見守り、そ のふたつのコントラストはあ たかも壮大な壁画の物語 性を思い起こさせる。
(逃げなきゃ)
あいつがこっちへ来たら・・・ 次の瞬間、僕は自転車に 飛び乗って「龍の巣」を背 に一目散にこぎだした。す ると、前方に広がる、落ち 着き払った鈍い青空がみ るみる遠ざかっていく。
バリバリバリバリッ、
 大粒の雨が痛いほど僕 の背中を打ちつけ、目も 開けていられない。膝はも はや自分のものではない かのように上下運動を繰 り返し、滑稽なほどまでに 脚は回転していた。

 そして止めを刺すように、 ドォーンという音が圧力を 伴って僕の体全体を貫い ていった。


 そのあと、どうやって家に 辿り着いたのか覚えてい ない。

*

 団地の駐輪場に自転 車を停めると、通りがかっ た買い物帰りの主婦が 怪訝そうに、ひとりずぶ濡 れの僕を横目で見なが ら通り過ぎていった。
 僕は雨なのか、涙なのか、 それとも鼻水なのか判ら ない液体を拭って北の 空を振り返ると、そこには あの静かな東の雲が何 かを見守るように佇んで いるだけなのだった。

(終)